小奈木川は小名木川とも書き、隅田川と中川をつなぐ堀割であった。西は万年橋下から発し、東は中川の番所のある所まで全長約一里十丁(5km)、川幅は約二十間(36m)あった。天正十八年(1590)に江戸へ入府した徳川家康は、下総国行徳から塩を運ぶため、小名木四郎兵衛と言う者に命じて掘らせた掘割であるのでこの名が付けられた。
中川以東では、舟堀川の先に昔からあった古川と言う細い水路を使う代りに、新しく直線の新川を開削して江戸川とつないだ。江戸が発展するにつれて両掘割ともに、当初の行徳の塩を運ぶだけでなく、銚子から利根川を遡り、関宿から江戸川を下って行徳まで運ばれて来た、日本海や奥州方面の物資をも江戸へ運ぶ重要な輸送路になった。川舟による運搬方法は、量的面、運賃面、安全面で、人力や馬の背に比べ遥かに勝れていたので、江戸時代には盛んに利用された交通手段であった。江戸小網町にあった行徳河岸から行徳までは「行徳船」とか「長渡船(ながわたしぶね)」と呼ばれる船が、一般の渡し舟のように往復していた。これには十五~六人乗りから二十四人乗りまであった。広重がこの絵に描いている舟もそうした旅人を乗せた舟と思われる。
昔、小奈木川の中程の、北側の川筋に、同じ位の大きさの古い松が五本立っていた。その中四本の松は枯れてしまって、九鬼家の屋敷にあった松一本だけが残って蒼々としていた。その枝は屋敷内から道路を越えて小奈木川まで達し、水面を覆っていた。一本の松しかなかったのにもかかわらず、人々は五本松と称し、これを見ながら舟旅の疲れを癒していた。
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