江戸時代には、重要な街道である五街道の他に、脇往還といわれる付属的街道があった。水戸街道もその一つで、江戸から徳川御三家の一つ水戸家のある水戸へ通じていた。
江戸の千住大橋を渡って、北千住宿で奥州街道と分かれてきたこの街道は、亀有から中川を舟で渡っていた。渡った先に宿場があり、当時新しくできた宿場ということで「新宿(にいじゅく)」と呼び、またその手前の中川の渡しを「新宿の渡し」と呼んだ。中川の川幅はそれ程なく、水勢も和やかで、舟銭も取らなかったという。
新宿の外れで、水戸街道から佐倉街道が分岐していた。これらの街道の沿道には料理屋、旅籠屋、茶屋などが軒を連ねており、料理屋では中川で獲れる鯉、鮒、鱸(すずき)などの料理が名物として出されていた。
この絵は亀有側から対岸の新宿を望んで描いたものであろう。左に見える建物は料理屋と思われる。渡し舟を降りた旅人たちが、料理屋へ向かって歩いている。料理屋へ入りかけているのは商人であろう。荷物を両端に付けた天秤棒を担いだ下男を連れている。料理屋近くにある川岸の船着場のような所では男が釣り糸を垂れ、川の中央を下って行く藁蓆(わらむしろ)の帆掛舟は、大量の荷物を江戸の町まで運んで行くものと思われる。また遠景の山は日光の山々であろう。
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