向島の水神社のある森から、少し遡った所に内川(入江)があり、その南岸に木母寺が建っていて、境内に梅若伝説で名高い梅若塚があった。寺の名前は梅という漢字の偏と旁とを分離して付けたものと言われている。
昔、京都の公卿の子梅若丸は、七歳の時勉学に行った比叡山で仲間のいじめに遭い、逃げて帰る途中大津で、陸奥の信夫の藤太という人買いに誘拐され、この隅田川まで連れて来られて病死した。これは貞元元年(976)3月15日の事であったという。梅若丸を哀れんだ下総の僧が、埋葬して築いた塚が梅若塚である。ちょうどその一年後、子どもの行方を尋ねてやって来た母親が、塚の由来を聞いて世をはかなみ、供養の念仏を唱えて、鐘ケ池(対岸の橋場の西)へ身を投じて自殺してしまった。これが梅若伝説で、謡曲や歌舞伎にも取り入れられている。江戸時代、3月15日の梅若丸の忌日には、供養の大念仏が催され、多くの人が舟や徒歩で押しかけた。
この絵には木母寺は描かれていなく、門前にあった料理屋植半が描かれており、この店は芋、蜆料理で有名であった。屋根舟に乗って来た2人の婦人客が、この料理屋へ入って行くところである。
木母寺の北の出洲に、御前栽(野菜)畑があった。ここは元々将軍が向島方面の鷹狩に出た折、食事用に供する野菜を作っていた畑である。
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