徳川家康は井の頭の池の水量に目をつけ、大久保忠行に命じて、この池を水源とする上水を掘って、江戸市内へ水を供給するよう命じた。この上水が完成したのは三代将軍家光の時で、これを神田上水と名付けた。この上水の水は、飲料用として、江戸城や神田、日本橋の町家へ供給された。この意味で、この上水は日本における水道事業の嚆矢(最初)であったとされている。
井の頭の池は、武蔵野にあった水量豊かな湧水池(ゆうすいち)で、池底には水を噴き出す泉が七つあって、「七井の池」とも言われ、辺りが旱魃(かんばつ)になっても、ここだけは水が涸れることはなかったという。井の頭の由来は、池の形が猪(亥)の形をしていたからとか、水量豊かな井戸であり、「井の頭」であったからとか言われている。三代将軍家光がここを訪れた時、自ら小柄(こづか)で池の傍らにあったこぶしの木に「井頭」と彫って以来、この池を専ら井の頭と呼ぶようになったという。
池の西の池畔の中島には、弁天社が建っていた。弁天とは弁財天というインドの河の神であり、ここでは水の神として祀られていた。また池の西方には御殿山があって、松、檜、杉、楢などの木が鬱蒼と茂っており、その他にも桜、柳、楓、萩もあって、この地は新緑、納涼、観月、雪見によい景勝地となっていた。
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