甲州街道の四ツ谷の先に、江戸の西の関門の四ツ谷大木戸があり、その先に街道最初の宿場である内藤新宿があった。この宿場は、元禄十一年(1698)、幕府が信州高遠藩主内藤家の、広大な下屋敷の一部を返還させて、新設された宿場であるので内藤新宿と呼ばれた。
この宿場には街道に沿って旅籠屋、料理屋、茶屋が並んでいた。しかし、この宿場を通っていたのは甲州街道で、旅人は甲斐国と信濃国との間を往復する人々が主で、旅人の人数が限られていた上に、参勤交替の大名も三家と少なかった。そのためこの宿場は、享保三年(1718)に一旦廃止されたが、安永一年(1772)に再興された。再興後は、旅籠屋が飯盛女という、客の給仕をするとともに、売春も行なう女の人数を増やして、遊女屋の機能を持つようになったため、旅人はもとより、江戸市民、近郊の農民などが集まるようになった。
この宿場はまた、西方にあった農業地帯で産出した米、野菜、薪炭などの集散地となり、集められた生産物を馬で江戸へ運んだ。そのため、この宿場は馬の通行が激しい事で有名となった。そして馬の糞が道路のあちこちに散乱していて「四ツ谷新宿馬の糞」と言われるほどになった。
この絵の前景に馬の尻と足を大きく写し出している。馬の蹄には草鞋(わらじ)を履かしている。当時は馬の蹄に蹄鉄を装着する習慣がなかったので、蹄の磨滅や損傷を防ぐために草鞋を履かしていたのである。
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