三十三間堂は、もともと京都の蓮華王院の中にある堂を言った。この堂は正面の柱間数が33あったことから三十三間堂と呼ばれていた。江戸時代には、武士たちが堂の南縁から北縁に向かって、力の続く限り射た、矢の数で競争する通し矢が行なわれていた。
江戸でも弓師備後が、浅草東本願寺近くに幕府から土地の下賜を受けて、京都の三十三間堂を真似た堂を建築し、通し矢を始めた。しかしこの堂は元禄十一年(1698)の火事で焼けたので、再度深川に土地の下賜を受け、同十三年に京都と規模を同じくする三十三間堂を建築した。
この堂は、南北六十六間(約200m)、東西四間(約7.3m)あり、四面には廻り縁がついていた。また堂内には、千手観音が安置されていた。この堂は富岡八幡宮の別当永代寺の所有で、裏門は八幡に面し、表門は木場の堀に向かって建っていた。
通し矢は三十三間堂の裏側の縁で行なわれた。通し矢は夕刻から、翌日の夕刻まで一昼夜かかり、暗い夜中には矢先に篝火(かがりび)を付けて継続した。通し矢が終わると、射た矢数と姓名を絵馬に書いて堂に掲げた。後に矢数の多いものが出た場合には前の絵馬を下ろして、自分の絵馬と取り替えることができた。
三十三間堂の周囲には材木市場の木場があり、この絵には掘割に貯木された材木が描かれている。
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