五百羅漢像を祀った黄檗宗の羅漢寺は、本所五ッ目の竪川(たてかわ)と、小名木川との間に広がった、田圃や畑に囲まれて建っていた。羅漢とは阿羅漢の略で、仏教の修業を積んだ最上位の聖者を指し、中国では十六羅漢とか十八羅漢といって、何体もの羅漢像を一つの堂に祀って供養する風習があった。これを羅漢会といった。
日本ではさらにその数が増えて、五百体の羅漢像を一堂に祀る寺も出てきた。その理由は釈迦の滅後、経典の編纂に参加した弟子の数が、五百人であったからだという。
羅漢寺の開山は鉄眼禅師で、その弟子の松雲禅師が、九州豊前の羅漢寺にあった像を真似て、等身大の羅漢像を五百二十体作り、この寺に祀ったとされている。この寺は江戸幕府の手厚い保護を受けていて、羅漢像の寄進者の中には、五代将軍綱吉の母・桂昌院を始めとして、浅野内匠頭、紀伊国屋文左衛門などのそうそうたる人の名前が連なっていた。また一般の人たちは羅漢像の像が多く並んだ寺へ行くと、死んだ近親者の顔を見ることが出来るといって、ここを訪れる人も多かった。
羅漢寺の境内には、さざい堂という高楼が建っていた。この堂は、さざい貝のような螺旋状の階段が中にあったことからこの名が付いた。この堂の三階の回廊からは四方の景色を一望することができた。この絵の、さざゐ堂の横を通っている道を右へ進むと、竪川という運河があり、その両岸は木置場となっていた。この絵の遠景に、櫛の歯のように見えるのは、この木置場に立てて貯木された材木である。
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