江戸の北を東流していた隅田川が、大きく南へ向きを変えた辺りへ、東北から綾瀬川が流れ込んでいた。この川のすぐ東側に堀切村があり、ここに江戸一番の質と量を誇る花菖蒲園があった。この辺りは土地が低く、湿地帯もあり、水を要求する花菖蒲の育成には適した土地であった。
室町時代の末期に、地頭の久保寺胤夫という人が、家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲の種子数株を持ち帰らせて、自邸に植えたのが堀切の花菖蒲の始まりという。
また別の説では、江戸時代に百姓の伊左衛門なる者が、花菖蒲の培養に興味を持ち、日本各地から色々な種類の花菖蒲を取り寄せて、その繁殖を図ったのが最初であるともいう。この百姓の二代目も変種の花菖蒲を取り寄せて、その繁殖に務める一方、品種を変化させることにも努力した結果、立派な花菖蒲園が出来上がったとされる。花菖蒲は、初夏の頃、赤紫、濃紫、淡紫色の美しい花をつけた。広重は、この絵より数年前に、同じ画題でここの風景を描き、その絵に「都下の美女(たおやめ)の競うときは、いずれか花と見紛(みまご)うばかり」という文を付け加えている。
花菖蒲の名声を聞いて、天保八年(1837)にここを訪れた水戸中納言徳川斉昭は、その雅趣のある景観を賞愛し「日本一の花菖蒲」であると折紙を付けたという。ここの花菖蒲は広重の他にも、春信、豊国などの浮世絵師が取り上げて描いている。
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