隅田川が新大橋の先でやや右旋回した所に洲が出来ていた。この洲は川が運んできた土が蓄積されて出来たもので、中州と呼ばれていた。隅田川の流れがこの洲で二股に分流していて、本流とあわせると三股に見えたので、ここを三股と言うようになった。
さらに、この辺りは隅田川の河口に近く、江戸湾から流れてくる海水の塩水と、隅田川の淡水とがお互いに分かれる所だと考えられ、わかれの淵という名が付いていた。
隅田川の河口に出来た中州は、また、江戸を防衛する上で、戦略的に重要な場所に位置したので、後年幕府は、町民が家屋敷を建てることを禁じ、大名のみが屋敷を建てることが許されていた。
大名屋敷のある中洲が対岸に描かれている。その右に隅田川の本流から分岐した水路が見えている。この水路は江戸市中に張り巡らされた運河を通って、江戸の中心まで通じていた。隅田川の右岸に二つの番所が見えている。番所の番人たちはこの水路へ入って行く舟の検閲をしていた。
みつまたは、「三派(みつまた)の月見」と称される程の景勝地で、特に水に映る月の景色に秀れていたので、昔は、大名小名そのほか、貴賤の上下を問わず舟でここを訪れ、月見を楽しんだという。
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