隅田川の河口に佃島という小さな島があった。徳川家康は、慶長五年(1600)の関が原の合戦の勝利の裏には、摂津国(大阪)の佃村の漁民の手助けがあったとして、 36人の漁民を江戸へ呼び寄せ、隅田川や江戸湾で漁撈することを許可した。さらに正保元年(1644)には、隅田川の河口にあった小島が漁民たちに与えられた。彼らは佃村から来た漁民であったことから、自分たちの住むこの小島を佃島と名付けた。これが佃島の由来である。
佃島の漁民は、島の周辺で獲れた白魚を将軍家に献納する義務を負わされていた。彼らは年間を通じて漁撈をしていたが、白魚が旬である11月から3月までの寒い期間は、白魚以外の魚を取ることが禁止され、この間に獲れた白魚は将軍家へ献納されることになっていた。寒中の毎夕方、彼らは篝(かがり)の設備をした舟で沖に出て、漁火(いさりび)を焚いて、四つ手網を使って白魚漁に励んだ。
佃島の北には、隅田川に架かる永代橋があり、広重はこの橋の下から見た冷たい夜の佃島と、その周辺の情景を描いている。左側の橋柱(はしばしら)の後ろでは、篝に漁火を焚いて、四つ手網で白魚を獲る舟が見えている。絵の右のほうの海には、帆を下ろした舟が何艘も舫(もや)っており、空には十日月と思われる月が懸かり、多くの星々が散らばって見えている。
佃煮とは佃島の漁民が、小魚や貝類を、醤油・味醂・砂糖などで煮詰めて保存食とし、漁に出る時に持っていったものである。後にこれが一般の人にも広がって食されるようになった。(参照 名所江戸百景No.55佃しま住吉の祭)
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