蒲田は、東海道の品川宿と川崎宿との中間にあった。この地に和中散という風邪薬を売る店が三軒あった。その中の東海道沿いにあった一軒の主人は、近江国草津の梅の木村の出身で、「梅の木堂」という看板を掲げて薬を売る一方、この地にあった、梅の名木を集めて見事な庭園を造っていた。この庭園を梅園といい、その中には池を造り、四阿屋(あずまや)や茶屋も配置されていた。
この梅園は、あまねく人に知られるところとなり、東海道を行く旅人ばかりでなく、川崎大師参りの人も訪れて行ったという。
この辺りの土質が、梅の木の生育に適していたので、農家は副業として、田畑の間や家の前後の土地に、梅の木を植え、収穫した梅の実で梅干を作って、東海道を通る旅人たちに売っていた。中には江戸まで梅干を売りに行った者もあるという。
梅の花は寒い冬のあと、最初に咲く花であり、またほのかな香りを放った。そのため梅見は、古くから日本人の間に広く普及していた習慣であった。梅見の季節になると、多くの人々が梅園を訪れ、梅の花と芳香を楽しんだ。
この絵に描かれた駕籠は、江戸の粋人が乗って来て、梅見をする間待たせてあるものであろうか。
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