将軍が徳川家康を祀る日光社参をする場合、交通の混雑や警備上の問題から、一部の日光街道の本道を避けて、岩淵宿から荒川(隅田川の上流)の川口の渡しを舟で渡り、川口宿を経て、幸手(さって)で日光街道の本道に合流する、岩槻街道を利用していた。このためこの街道を「御成道」ともいった。
この絵には、荒川を渡って川口宿へ旅人たちを乗せて行く渡し舟と、隅田川の河口にあった木場まで木材を運ぶ筏が描かれている。荒川とは文字通り荒々しい川で、豪雨が降って水位が上ると、水が堤防を越えて洪水となったり、また水の流れは速く、時々渡し舟が転覆することもあった。この川の水源地近くには豊富な森林があり、そこで伐採された木材は筏で江戸まで運ばれ、江戸の家々を建築するために使われた。
川口の渡しを渡って、荒川の堤防を左へ行くと善光寺が建っていた。この寺には阿弥陀三尊が祀ってあり、この仏像の御開帳の期間には多くの信者で賑った。この期間境内では、一種の賭事である富籤(とみくじ)興行が行なわれた。幕府は通常賭け事を禁止していたが、御開帳の折には、富籤興行は暗黙の中に許され、興行主は富札の売上げから得た収入の一部を、寺に寄付することになっていた。記録によると安永三年(1774)の御開帳の折には、二艘の渡し舟では充分でなく、参詣者たちは舟を二時間半以上も待たねばならなかったという。
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