昔、北日本へ通ずる道が、霞が関のある台地を通っており、この台地に関があったことから、ここを霞が関と呼ぶようになった。この台地からは、江戸の町の心臓部や、帆掛舟の浮かぶ江戸湾を見渡すことができた。この絵も、霞が関の坂の上から、江戸の町を見下ろした景色を描いている。江戸の町の海岸近くに、ひときわ高い屋根が見えている。これは築地本願寺の建物である。(参照 名所江戸百景No.78鉄砲洲築地門跡)
江戸時代になると、霞が関は大名屋敷が建ち並ぶ地域となった。この絵の道の右側は、松平美濃守の上屋敷であり、左側は松平安芸守の上屋敷である。両屋敷の門前には門松が立ててある。この絵は、霞が関における正月の風景を描いたものである。この絵の中には新年に見られる色々な人が描かれており、そうした人を左から見てみる。
1.多くの箱を重ねて肩に担いだ小鰭鮨(こはだずし)売り
2.太夫と才蔵の二人の萬歳師
3.御幣を押し立てた太神楽(だいかぐら)の一行
4.年始回りの武家の一行
5.羽子板を持った娘と母親
6.払扇子(不要となった扇子)買い
新年の男の子の遊びは凧揚げであった。大名屋敷から凧の糸が出ているのを見ると、大名の子どもたちが、凧揚げを楽しんでいるようである。絵の中央の頂上に揚がっている凧に、漢字で魚と書かれている。この字は、この『名所江戸百景』シリーズの発行元「魚栄(うおえい)」から取ってきたものであり、発行元は凧の図案を利用して、抜け目なく自社の宣伝をしているわけである。この絵の左に描かれている小屋風の建物は、ここの大名屋敷の辻番所であり、この屋敷の番人が詰めていた所である。
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