絵図一番の密度を誇る御徒町の組屋敷
収図範囲は、外神田・神田和泉町・御徒町一帯。びっしり書き込まれた幕府の歩兵部隊「徒組」の組屋敷が「御徒町」。下谷練塀小路は御数奇屋坊主衆の町で、「天保六花撰」の河内山宗俊もこの町に住んでいたらしい。また、神田同朋町には、阿弥衆とも呼ばれる同朋衆が住んでいた。不忍池の池尻にある空き地は、明暦の大火後に幕府が設けた火除地の下谷広小路。忍川に架かる3基の橋は三橋と称し、将軍も通る寛永寺への入り口だった。「此通御徒町ト云」と書かれたあたりに、種痘接種の道を開いた伊藤(東)玄朴の屋敷と種痘所がある。