稲荷社は、もともとは農業神として農民たちに尊崇されていた神を祀る社であった。王子稲荷社も、昔は近くを流れる石神井川流域の農民が信仰する田の神であり、古くから関八州に散在する稲荷社の総元締という格式の高い社でもあった。
江戸時代になると、農民以外の人々の間に、現世的な御利益(ごりやく)を求める風潮が強くなり、稲荷を除災、開運、商売繁盛の神としても信仰するようになった。こうした御利益を信じた人々は、稲荷を町中はおろか、自分の屋敷内までも持ち込んで祀っていた。
王子稲荷のある王子地域には山、川、渓谷もあり、ここは八代将軍徳川吉宗を始めとして、幕府が町民のための遊山地にするべく力を入れた地域である。飛鳥山には桜、滝の川には滝、その沿岸には松、楓、つつじなどが植えられた。加えてこの地域には神社・仏閣もあったので、開発が進むにつれて王子を訪れる江戸の町人たちも増加した。ここを訪れた人々は、ついでに王子稲荷にも参詣していった。この稲荷は、歌舞伎役者の市川団十郎が、当たり役となった「暫」という芝居の成功を祈願した社だという伝説も伝わっている。
この絵には稲荷社の特徴であった朱塗りの社殿の一角が描かれている。社の門前には町屋が並び、庭の梅が満開となっている。遠景に聳えて見える山は筑波山である。
この社の北方の田圃の中に一本の榎の木が立っていた。毎年大晦日になると、関八州の狐が集って、王子稲荷社へ行き会議を開いたという。その有様が名所江戸百景No.118「王子装束ゑの木大晦日の狐火」に示されている。
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