隅田川の右岸の吾妻橋と両国橋との間に、幕府の米を貯蔵する浅草御蔵があった。その北の三好町には、幕府の下臣の俸禄として支払われる米を、江戸市中へ運ぶ馬が飼われていた厩があり、ここの河岸を御厩河岸と呼んだ。そしてこの河岸と、対岸の本所石原町との間を結んだ渡しは「御厩河岸の渡し」と名付けられていた。
御厩河岸は、その西北にあった浅草寺界隈の盛り場に近かったので、対岸の本所からも色々な種類の人々が渡し舟に乗ってやって来た。この絵の渡し舟に乗って御厩河岸へ渡って来る二人の女は、当時夜鷹と呼ばれた私娼とされている。普通彼女らの出立(いでたち)は、綿の着物を着、綿の帯を締め、顔だけに白粉(おしろい)をぬり、首には白粉をぬらず、ござを抱えて持ち、手拭のような白木綿をほほかむりして、端をくわえていた。彼女らはまた客引をする男を伴っていた。この男のことを妓夫と書き、ぎゅうと読ませていた。四代目広重を名乗る、江戸の風俗研究家菊地貴一郎氏は、彼女らについて、「年々春夏秋の三季、毎日暮に至るや否や……鷹の名あれども、船にて御廐河岸の渡しを此方の岸へつき……」と説明されている。
夜中彼女らは、担ぎ売りのそばを食べていたところから「夜鷹そば」なる名前が生まれた。
>> 専用額について詳しくはこちら