浅草周辺は、かつては隅田川の三角州から干上がった島であり、草が浅くて住みやすい場所であったところから浅草と称せられたという。
浅草寺の縁起によれば、推古(すいこ)天皇三十六年(628)に、漁師檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)の二人の兄弟が、駒形辺りの宮戸川で投網(とあみ)を打って漁をしていたところ、一寸八分(5.5cm)の小さな黄金の仏像が網にかかって上って来た。これを見た村の主の土師直中知(はじのあたいなかとも)は観音菩薩(かんのんぼさつ)に違いないと考え、自宅へ引き取って祀っていた。大化元年(645)にこの地方を巡錫(じゅんしゃく)していた勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの話を聞き、観音堂を建ててその像を祀った。これが浅草寺(せんそうじ)の始まりという。浅草寺の山号金龍山は、その昔天から金鱗(きんりん)の龍が、ここへ舞い降りて来たことに因んで付けられたという。
浅草寺は、江戸中で最も人気が高かった寺である。それは、1.寺の歴史が古い、2.寺の裏に奥山と称する遊興場所があった、3.寺の北方に新吉原の遊廓があった、4.寺の北東の猿若町へ芝居小屋が移ってきた、などのためである。
広重は、雪に覆われた静かな浅草寺の境内を描いている。この絵は浅草寺の風雷神門(ふうらいじんもん)から正面に仁王門、右に五重塔を望んだものである。通称雷門という風雷神門の左右には、風と雷の二神が安置されており、雷門に吊り下がっている大提灯は、新橋の信徒から奉納されたもので志ん橋と書かれている。なお、この五重塔は、第二次大戦中に空襲で焼けたため、その後に仁王門の左に再建された。
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