八代将軍吉宗(よしむね)の治世に、全国的な大飢饉(だいききん)やコレラの流行で、百万人以上の死者が出た。幕府はこれらの死者の慰霊と疫病払いとをかねて、享保十七年(1732)五月二十八日に両国橋付近で水神祭(すいじんさい)と川施餓鬼会(かわせがきえ)を催し、翌年五月二十八日には隅田川の川開きを行ない花火を打ち揚げた。これが両国の川開きの始めである。川開きとは、江戸市民がこの日から八月二十六日まで、隅田川に舟を浮かべて納涼が許される合図でもあった。
花火の打ち上げを請け負ったのは、浅草横山町の鍵屋(かぎや)弥兵衛と、両国広小路の玉屋(たまや)市兵衛で、両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当した。両者が花火を舟の上から打ち上げるたびに観衆は「タマヤー」とか「カギヤー」と叫んで景気をつけた。
この夜は、花火を何とか見ようと、江戸中の人が両国橋や隅田川の両岸に押しかけた。さらに金持たちは船宿から、あらゆる種類の舟を借り出して両国橋の下へ集まった。混雑した舟と舟の間を、酒、小料理などを売るウロウロ舟が漕ぎ回り(ウロウロさまようの語源)、また芸人たちが舟に乗って音曲を奏でて流して行った(流しの語源)。
花火の費用は、この日多くの客を見込めた船宿が8割、両国近辺の茶屋と料理屋が2割を負担した。そのほかに自分で金を出して花火を打ち揚げて貰う者もいた。
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