江戸時代、能は武士階級が見て楽しむものであり、芝居(歌舞伎)は町人が見て楽しむもので、武士階級が見に行くものではないとされていた。芝居は市民の風俗を乱すと考えられ、また小屋から火事を出したりしたので、幕府からは日頃から快く思われていなかった。たまたま、幕府の天保改革(1841-43)の最中に、江戸の中心地にあった中村座、市村座、森田座の三座のうち、中村座の楽屋から火が出て周囲の芝居町を焼いてしまった。この機会を捉えて幕府は、この三座と人形芝居の二座に対して、浅草北の辺鄙(へんぴ)な土地へ移転するように命じた。新しい芝居町は、江戸歌舞伎の始祖・猿若勘三郎の名を取って猿若町と名付けられた。ところが、この地の南西に江戸一番の繁華街の浅草があり、さらに西北には新吉原という遊廓を控えていて、この地へ移転してからの芝居は衰えるどころか、かえって繁盛し、最盛期を迎えることとなった。
広重はこの猿若町を北から南を見て描いている。右側の手前から森田座、市村座、中村座と並んで建っていて、左側の手前は芝居茶屋で、その先に人形芝居の二座が続いていた。三座の芝居小屋の屋根の上には、それぞれ幕府が興行を許可した小屋であることを示す櫓が上げてあった。
芝居興業は、一般に明け六ツ(午前6時)から、暮れ六ツ(午後6時)までの昼間興業であった。満月に照らされた猿若町のこの絵は、芝居が跳ねた後であることを示している。
広重は、西洋画から学んだと思われる遠近法や人物などに付ける蔭を使ってこの絵を描いている。この中、遠近法については、彼独得の処理方法を生み出し、かえって、フランス印象派画家モネなどに影響を与えたといわれている。
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