上野の山の南端に建っていた清水堂の下を、不忍池に沿って通っている道端に、枝が円い輪のように育った松の木があった。人呼んでこの松を「月の松」と呼んだ。この絵で広重は、この松を前景に大写しにして描き、これに眼鏡の役割を果たさせ、その中に不忍池、池に突き出た中島、対岸の本郷台に建ち並んだ武家屋敷を覗かせている。
不忍池は、大昔武蔵野台へ食い込んでいた江戸湾の名残であって、原野の中に水面を輝かせてはっきり見えたので不忍(しのばず)の名が付いたという。上野の山にあった寛永寺の開基の天海僧正は、不忍池が江戸城の北東に位置していたことから、この池を京都の北東にあった琵琶湖に擬し、この地に竹生を模した島(中島)を築き、そこに弁天祠を建立して弁財天(中島弁財天)を祀った。また不忍池は蓮の花の名所で、江戸随一を誇っていた。弁財天の周囲には料理屋が建ち、蓮めしを名物として売っていた。
不忍池の対岸の本郷台は、加賀百万石の大名を始めとして、大名屋敷の多い所であった。ここは冬火事が起こると、北風に煽られて南の神田や日本橋方面の町家に類火し、大火事に発展することが多かった。そこで各大名屋敷は火の見櫓を建てて火事に備えていた。中でも加賀藩は、強い特権意識を持った加賀鳶という、火消人夫を抱えていたことで有名であった。
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