この絵に描かれている坂が紀の国坂である。この坂の名前は、この坂の右側に沿って紀州家の中屋敷があったことから付けられたものである。この屋敷は火の見櫓だけで辛うじて示されている。この屋敷のある辺りを昔は赤根山と言った。それは、ここで茜という蔓草の根から、赤色の染料を作る植物が生えていたからといわれている。また赤根山へ登る坂が赤坂であった。
この赤坂は後になって紀の国坂、あるいは紀伊国坂と呼ばれるようになる一方で、赤坂はここより南の地域一帯を示す名前となった。
この絵の表題にある、溜池は描かれていないが、実際には溜池は赤坂の町屋と、左側に見える小高い岡の「山王台地」との間を、麓に沿って南に細長く虎ノ門まで達していた。紀の国坂の左手の堀は弁慶堀と言い、寛永年間(1624-1644)この堀の工事を請負った、弁慶小左衛門の名前を取って付けられた。
紀の国坂を、手前の方へ向かって進んで来る大名行列は、一列しか描かれていないが、二列のはずであり、先頭に2人の供が飾鞘を被せた長い槍を持ち、後方にも2人の供が長い槍を持って従っていた。このように4本もの槍を持つことを許されたのは、徳川御三家のみであったので、中央の駕籠に乗っているのは紀州公であろうと思われる。
遠方に見える背の高い火の見櫓は、芝増上寺の南の久留米藩主有馬中務大輔の屋敷に立っていたものであろうか。
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