武蔵野台地の東端に淀橋台があり、江戸の町はこの台地の上に発達した。この台地の南西の縁は、目黒川に向かって下る斜面となっており、この斜面には多くの坂道があった。その中の一つに中目黒へ向かって下って行く茶屋坂があり、この坂の上方に一軒の茶屋、通称一軒茶屋が建っていた。この茶屋から遥か南方に、ひときわ高く聳えた富士山を望むことができた。
目黒は江戸城の桜田門から2里(8km)弱の近距離にありながら、丘陵や平地の起伏に富んでいて、将軍家の鷹狩にとっては好適な場所であった。鷹狩に来て疲れた将軍がよくこの茶屋で腰を下ろして休んで行った。三代将軍家光は、この茶屋の主人で百姓をしていた、彦四郎の素朴な人柄を殊のほか愛して「爺々」と話しかけたので、この茶屋が「爺々が茶屋」とも呼ばれるようになった。
さらに、十代将軍家治が立ち寄った際には、彦四郎の子孫が、団子と田楽を作って差し上げたところ大変喜ばれて、以後これらを作って差し出すようになったという。落語に「目黒のさんま」という噺(はなし)がある。大名が庶民の食べる、さんまをうまいといって所望する筋書であるが、この噺の原型がこの茶屋から生まれたと思われる。しかし、実際の落語に出て来る場所は、ここより北西にあった目黒元富士となっている。
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