増上寺の門前から、東の海までの地域を芝と言った。昔この海辺から西北にかけての原野に、芝が生えていたところから芝の名前が起こり、そして北は汐留橋から、南は高輪辺りまでの海浜を芝浦と言った。
増上寺の南側を、西から東へ流れてきた赤羽根川が、芝では金杉川と名を変えて芝浦の海へ注いでいた。その河口近くには、東海道が芝浦に沿って南北に通っており、金杉川を浜松町から金杉町へ渡る橋を金杉橋と言った。芝浦の金杉町辺りで取れる魚は江戸前と称して、江戸において最も新鮮にして美味の魚とされた。
この絵には金杉橋の欄干が、辛うじて見えている。橋を渡っているのは、江戸講を結んで池上本門寺へ参詣に出掛け、参詣を終えて江戸へ帰る人々である。日蓮上人が亡くなったとされる池上本門寺では、命日の10月13日前後に御会式が行なわれ、連日日蓮宗の門徒で賑わった。特に日蓮の忌日の前夜は「お逮夜」と呼ばれ、各地から集まった講中の人々が、万灯をかかげ、纏を振って、団扇太鼓や鉦を叩き、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら境内を練り歩いた。
この絵の中の傘は、万灯か纏と思われる。手拭の図案、魚栄梓は版元の名前、井桁に橘は本門寺の紋、講中とは講を結んで寺に詣でる連中の意味。真中の赤い垂れ幕の字はお題目。また、右の傘から垂れている手拭の身延山は日蓮宗総本山久遠寺の別称である。
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