隅田川が江戸湾へ流れ出る河口近くで、京橋川が隅田川へ流れ込んでおり、京橋川の河口から隅田川に沿って八丁(870m)ばかりの長さの砂洲ができていた。この洲が大筒(大砲)の試射場であったからとか、鉄砲の形をしていたからとかで、鉄砲洲と呼ばれていた。
この洲の内側はもともと葦の茂る湿地帯であった。明暦の大火(1657)の教訓から、幕府は大名屋敷や町屋を拡散する方針を立て、その一環としてこの湿地帯を埋め立てて土地を造成し、大名屋敷や町屋を次々に建てた。この土地は湿地帯を埋め立てて築いた土地であったので築地と呼ばれていた。
浄土宗西本願寺の別院は、元和三年(1617)に浅草海辺に創建され、浜町御坊と呼ばれていたが、明暦三年(1657)の明暦の大火で焼失したので、佃島の漁師をはじめ、多くの信徒が協力してこの地を埋め立て、本願寺の別院を再建した。人々はこの寺を築地御坊とも築地門跡とも呼んだ。この寺の壮大な屋根は群を抜いて高く、遠方からもよく見えたことはもちろんのこと、海を航行する舟も、この寺の屋根を目標にすることができたと言われている。
鉄砲洲の前の海は江戸湊と言われ、日本各地から大型船で送られて来た物資が、ここで小型船に積み替えられて、江戸市中に張り巡らされた掘割を通って、江戸市内の各地へ配送された。
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