江戸城の外堀から流れ出た京橋川は、八丁堀を通って隅田川へ流れ込んでいた。この河口から南へ、およそ八丁(870m)ばかりの細長い洲ができていて、これを鉄砲洲と言った。その由来は寛永の頃(1624-44)、井上、稲富の砲術家の両家がこの洲を、大筒(大砲)の試射場に使っていたからだとか、あるいはこの洲が鉄砲の形に似ているからだとか言われている。大筒の試射場は、江戸城に近すぎるという理由で、後に鎌倉由比ヶ浜に移転させられた。
鉄砲洲の北端に、赤い塀に囲まれた湊神社があって、またの名を湊稲荷ともいっていた。この社の前の海は、諸国から物資を運んできた多くの廻船が碇泊する港であった。その船乗りたちは、この社の神を守護神として崇め、航海の安全を祈っていった。この社の北の京橋川に架かった橋が稲荷橋であった。
隅田川の河口部分と、鉄砲洲から南の芝浦までの、いわゆる江戸の前の海を江戸湊と言った。大都市江戸で消費される物資は日本全国から桧垣廻船や樽廻船などの大型船で江戸湊まで運ばれてきた。こうした物資は、この湊で小型船に積み替えられて、京橋川、日本橋川、神田川など江戸市内に張り巡らされた掘割を通って、最終消費地の河岸まで運ばれていた。
この絵の前景には大型船の帆柱が二本立っており、また江戸湊には、大型船から積み替えた荷物を江戸市内へ運ぶ小型船も描かれている。
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