江戸城の東側の外堀から東方の江戸湾まで、通船堀として開削された、八丁堀の上流を京橋川と呼び、東海道がこの川を渡る橋を京橋と呼んだ。橋の名は京都へ上る街道にあるからとか、京都の三条の大橋に似ているからとかで付けられたと言われている。この橋は日本橋と並んで最も古く、また擬宝珠(ぎぼし)のある欄干を持った、格式の高い橋であった。
京橋より下流の北岸は竹河岸と呼ばれ、河岸には多くの竹問屋が並んでいた。竹の産地は房総半島や下野(しもつけ)国で、竹は筏に組んでここまで運ばれた。この絵の中に、その筏が竹河岸の前に三艘ばかり浮いており、さらにもう一艘が川を遡って来る。すでに陸揚げされた竹は、幾重にも重ねて立てかけられて、あたかも壁のように見えている。
江戸時代に、竹は建築材料、生活用具、農具、漁具、竹細工など非常に広範囲に利用されていた。この絵にも竹籠を積んだ舟が描かれており、この近くに竹細工の製造場所があったことを示している。
満月の明かりの中、橋を渡る白手拭を冠(かむ)った男の持つ提灯に彫竹の字が見える。彫竹とは、この絵の初板を彫った彫師とされている。その後方の一行は大山参りからの帰りかと思われる。
19世紀後半に、英国画壇で名を成したホイッスラーは、この広重の絵に感化を受けて、テームズ川に架かるオールド・バターシー橋を絵にしている。
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