江戸時代の初め、大伝馬町は日本橋を起点とした奥州街道の最初の宿駅であり、駅家が多くまた伝馬の用意も充分してあったので、ここは大伝馬町と呼ばれるようになった。これに対して、大伝馬町の北にあった通りは、江戸城内やその周辺の道中伝馬を用意していて、小伝馬町と呼ばれていた。しかし、後に奥州街道の駅制が整備され、江戸から最初の宿場が千住宿に指定されてからは、伝馬の用意はこの宿で行なわれるようになった。
後年、大伝馬町は木綿問屋街に発展した。広重は、京都の下村彦右衛門が創業した呉服太物商大文字屋、通称大丸が、元文三年(1738)に大伝馬町三丁目に開店した、江戸店の大丸屋を描いている。軒先に垂れ下がった紺と茶色の暖簾には、大丸の紋章が白く染め抜かれている。店の外に立つ看板には「けんきんかけねなし」と掛で買うのではなく現金で買う人には安く売るという宣伝がしてある。この商法は、日本橋の北の駿河町にあった呉服商越後屋を踏襲したものである。呉服太物類の呉服とは絹織物をいい、太物とは麻織物や綿織物を言った。下むらとは、創業者の姓である。
大丸屋の前を行進している一行は、建物の上棟式を終え、式で使った諸道具を持って帰る一行である。先頭で烏帽子(えぼし)に素襖(すおう)姿で、女性の髪結い道具と、五色の吹流しで飾った御幣を担いで行くのは棟梁(とうりょう)である。その後を裃姿の鳶(とび)の頭、屋根職、左官職、大工たちが、魔を払うために用いた、二本の破魔矢を担いで続いている。
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