両国橋と吾妻橋との間の浅草川の、西岸に浅草御蔵が建っていた。この蔵は幕府の直轄領(天領)における年貢米を収蔵するところであった。年貢米は各地から舟で送られて来たので、蔵の前には、米の荷揚げのために、一番堀から八番堀までの堀を掘って、九つの櫛状の埠頭が築いてあった。
四番堀と五番堀との間の埠頭の突端に、川に向かって枝を垂れた松の木があって、誰が名付けたか「首尾の松」と呼んでいた。江戸の中心から、浅草の北方にあった遊廓新吉原へ小型で速い猪牙舟で通った遊客は、行きも帰りもこの松の下で舟を止め、松を仰ぎながらこれから逢う女の首尾を祈ったり、あるいは今別れてきたばかりの女との、首尾を振り返ったりした。このため「首尾の松」はこれらの遊客の間で言い始めた名前ともいわれている。
この絵には、首尾の松の下に止まっている屋根舟が描かれている。暗闇である上に簾(すだれ)が下ろされていて中が見えないが、蝋燭の光が芸者と思われる女の影を簾に映している。米蔵の北には、昔幕府の御厩があり、御蔵に保管されていた米を、馬に乗せて武家屋敷まで配送した。そのためここの河岸を御厩河岸と言い、ここと対岸の本所との間には、御厩河岸の渡しがあった。(参照 名所江戸百景No.105)
この絵の屋根舟の庇の背後に見える舟が猪牙舟であり、また、川の中央を、お互いにすれちがおうとしている2艘の舟は、渡し舟である。
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