昔ここに、馬の売買や周旋をする博労(ばくろう)が住んでいたことから、後にこの地に馬喰町という名前が付いた。またこの町には、江戸で最古の初音という馬場があった。初音という名前はこの馬場の東に、初音稲荷社があったことから付けられた名前である。
徳川家康は、江戸幕府を開府する以前から、この馬場を使用して武士の訓練や乗馬の訓練をしていた。さらに家康は、慶長五年(1600)の関が原の合戦に出陣する前に、この馬場で軍馬を集めて検分し、士気を鼓舞する御馬揃えをしていったと伝えられている。
この絵には描かれていないが、この絵の手前、初音の馬場の地続きに郡代屋敷があった。郡代とは関東八州にあった幕府の直轄領を支配した役人であった。直轄領に住んでいた、商売人や農民の訴訟(公事)は郡代屋敷で行なわれたので、訴訟に来た人々はそれが終わるまで、江戸に滞在しなければならなかった。そのためこの絵の右に見えるような宿屋が集中して建っていた。これを公事宿(くじやど)とも呼んでいた。
初音の馬場の郡代屋敷と反対側の端には、半鐘を吊り下げた大きな火の見櫓が立っており、火事が発生した場合には鐘を叩いて、住民たちに警戒をさせていた。火事が鎮火すると「ジャン」と一度だけ半鐘を叩いたことから、失敗を意味する「オジャン」という言葉が生まれた。江戸時代末期の広重の時代には、武士がこの馬場を使用することは余りなかったようで、この馬場の近くにあった染物屋が、染物の干場として使っていた。
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