江戸最大の火事と言われた明暦の大火(1657)では、隅田川に橋がなかったために、十万人以上の人が逃げ場を失って、焼け死んだり溺死したりした。このような惨事がまたと起こらないようにと、幕府は寛文元年(1661)に、隅田川に橋を架け、さらに橋の東西の橋詰には、火除のための広小路を設けた。当初この橋は大橋と名付けられたが、その後、武蔵国と下総国の両国に跨った橋でもあったので、両国橋と呼ぶようになった。この橋が完成したことによって、隅田川東岸の本所や深川の開発が進み、橋の利用者も増加した。
橋の東西の広小路は、どちらも江戸有数の盛り場へと発展した。この絵は隅田川西岸にあった広小路を示している。広場の川岸に沿っては料理屋や待合が建ち並び、広場では様々な商売が朝、昼、晩と時間によって様相を変えて行なわれた。午前中は青物市場となって野菜が売られ、午後になると粗末な小屋が設けられて、芝居、講釈、軽業、手品、覗きからくりの見世物の興行場となり、夕方になると、屋台や床几が並べられ、蝋燭の火を点して麦湯や甘酒が売られていた。
隅田川は、場所によって変わった名で呼ばれていた。浅草近くでは浅草川とか宮戸川であり、両国橋辺りから下流の大橋までを大川と言った。この大川の両岸が大川端である。
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