摂津国西成郡佃村(大阪)の漁師たちは、色々な折に徳川家康のために便宜を図った。これに恩義を感じていた家康は、天下を取って江戸へ入府すると、漁師36名を江戸へ呼び寄せ、漁獲の許可を与えて江戸に住まわせた。後に彼らは隅田川河口の寄洲を幕府から与えられたので、ここに島を造成して移り住んだ。そして自分たちの生国の名前を取ってこの島を「佃島」と名付けた。
さらに彼らは、自分たちの郷土の産土神(うぶすながみ)であり、海上の守護神であった住吉神社の祭神を勧請して、この島に住吉神社を建立した。この社の祭は6月28日から29日にかけて行なわれた。祭が近づくと、「住吉大明神」と書かれた大幟が社の前に立てられ、佃囃子の笛の音に合わせてはためいていた。豊漁を祈るこの祭は、すべて佃島の住吉講の人々が取り仕切り、部外者の介入は一切許されなかった。祭の二日目には、大きな神輿が威勢のよい下帯姿の若衆連中によって海中まで担ぎ込まれ、祭を盛り上げていた。
佃島付近で取れる白魚は極めて美味で、徳川家康も好んで食べたという。佃島の漁師たちは毎年11月から3月までの間に取れた白魚はすべて幕府へ献上することになっていた。佃島を背景にして、永代橋の付近で、夜佃島の漁民が、漁火を焚き四ツ手網を使って、白魚漁をしている有様が、 No.4に描かれている。
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