江戸時代以前に、赤坂の山王台地の西の麓に池があった。この池は池の周囲から出た湧水(わきみず)や清水が窪地に溜まって出来た天然の池であった。
江戸時代に入って、徳川家康に恩義を感じていた和歌山藩主浅野幸長は、江戸城の西方に外堀がなかったことに目をつけ、赤坂に外堀を造ることを提案した。これが許されたので、慶長十一年(1606)に、虎ノ門に堰を築き、水を堰止めて池を拡張した。これが溜池と呼ばれて外堀の役目も果たす事になった。また玉川上水が承応三年(1654)に完成し、その水が虎ノ門まで運ばれるようになるまでは、溜池の水がここより南の市中への水道の役目も果たしていた。
この絵の左側に見える岡が山王台地で、天下祭で知られた山王権現社が鎮座しており、その麓の岸辺には、大名屋敷や寺の末寺が並んで建っていた。また池には、二代将軍秀忠が琵琶湖から鮒を、淀川から鯉を取り寄せて放流したので、鮒や鯉が多く泳いでいた。またこの池は上野の不忍池と並ぶ蓮見の名所でもあった。
溜池の西岸には、池の土手の補強のために桐の木が多く植えられていて、ここを桐畑と呼んだ。この絵は、前景に2本の桐の木を大写しにし、その樹間から溜池を望んだ大胆な構図の絵である。この画法は、フランスの印象派に少なからず影響を与えたとされている。
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