山王祭とは、山王台地に鎮座した日吉山王権現社の祭礼を言った。この社は江戸城を最初に築城した、室町時代中期の武将太田道灌が、江戸城内の産土神を祀るために江戸城内に創立した社である。江戸時代になって、江戸城へ入った徳川家康もこの社を江戸の鎮守として篤く信仰し、それ以後将軍の世継ぎとして生まれた子どもは、必ずこの社へ詣でるのが習わしとなっていた。この社は明暦の大火(1657)によって焼失し、その後に山王台地へ移築された。
山王祭は六月十五日に行なわれた非常に豪華な祭で、費用が莫大であったので、神田祭と一年交替で行なわれた。祭では、氏子の町々が趣向を凝らして飾った豪華な山車45台に、踊り屋台、 3基の神輿、さらに社家・氏子の連中が加わって長い行列を作って練り歩いた。この行列は江戸城の半蔵門から練り込み、吹上御殿で将軍や仕えの人たちの御覧に入れたのち、常盤御門から退出した。このことから、この祭は天下祭ともいわれた。
この絵の左前景に見えるのは、第二番の山車であった「諌鼓鳥(かんこどり)」である。第一番の山車である「猿」は遠景に見えており、今まさに半蔵門へ練り込もうとしている。絵の下方で揃いの笠を被って、三宅坂を登って行くのは手踊りの一行と思われる。
糀町は江戸城の内堀にあった半蔵門から、外堀の四ツ谷御門へ通ずる道の両側にあった町を言い、町屋へ入った最初の一丁が糀町一丁目であった。
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