角筈村は、内藤新宿の西で二股に分かれていた、甲州街道と青梅街道との間にあった。
応永年間(1394~1427)に、紀州から鈴木某なる者が流れて来て、ここで馬の売買をしていた。彼は家の近くに小祠を建てて、自分の出身地である紀州熊野の産土神である熊野権現を祀った。その後彼は商売に成功し大金持ちとなった。そこで彼は、これは権現のお蔭だと考え、小祠を建て直し紀州の熊野三社から、三所権現、四所明神、五所の王子の計十二所の神を勧請して祀った。一つの社に十二の神を相殿したので十二相殿とも言われ、これから後に十二そうともいわれるようになった。
社殿は岡の上に南面して建っていて、辺りには松、杉、樅(もみ)、柏などの古い木が、鬱蒼として繁茂していた。また、社の境内には、花の咲く桜、桃、杏(あんず)、李(すもも)などが植っていた。そして、この社の西には弁天池があり、また北東には滝があって、落ちた水が渓流となって流れていた。池の周りには料理屋も建ち並び、桜、紅葉、雪見などの清遊の地として、江戸の文人墨客に特に親しまれていたという。そもそもこの社は、厄除の御利益があるとして多くの人々の信仰が篤かったが、また他方、十二そうとは十二の相を持つ社に通ずるとして、人相、面相などを重んずる芝居の役者の参詣も多かったという。
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