神田川というのは、井の頭の池から江戸方面へ水を供給するために、江戸時代の初めに掘られた人工の水路であった。この絵は神田の台地を掘削して造った、掘割を流れている神田川を示している。この川はここより東で隅田川へ流れ込んでいた。当初この辺りの神田川は水深が浅く、荷物を積んだ舟が江戸湾から隅田川を通って遡ってくることは出来なかった。そこで幕府は万治三年(1660)に川を深くし、また川幅を広げたので、この絵に描かれているように荷物を積んだ船が入って来ることが可能となり、運河としての機能も果たすようになった。
この川に架かった橋を昌平橋と言った。この橋の名前は、この橋を渡った所から左へ上って行く坂に沿って建っていた聖堂と関係があった。聖堂とは中国の儒教の祖である、孔子とその弟子たち四人を祀った廟である。孔子は魯の昌平郷で生まれたので、昌平がここの橋の名前となった。また、この聖堂は湯島台地の上に建っていたことから、湯島聖堂とも言われた。
江戸時代に、幕府が採用した官学が儒教であり、官学の府が聖堂であった。ここには孔子廟と並んで昌平黌(しょうへいこう)という学問所もあった。武士の息子は十二歳に達すると聖堂へ来て四書五経についての試験を受けた。この試験に不合格となった息子は、父の跡を継ぐことは許されなかった。しかし不合格となった息子たちは合格するまで何度も試験を受けることが出来たという。
昌平橋の南詰は、八ツ小路であった。(参照 名所江戸百景No.9) 日本橋から八ツ小路を通って来た道は、昌平橋を渡った先で2路に分かれ、北へ行く道は奥州街道となり、北西へ行く道は中山道となった。
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