日本橋から日本橋川を下って、江戸橋を過ぎた左岸に小網町、右岸に茅場町があった。両町の間には橋が架かっておらず、江戸市民は舟で川を渡った。これを鎧の渡しといった。
往古、小網町の辺りは、神田の山から南に伸びた前島という洲崎の東側の海浜であった。昔、源義家が奥州征伐に行く時、ここから下総国へ、海を渡ろうとして舟を漕ぎ出したところ暴風が吹き、逆浪が押し寄せて舟が転覆しそうになった。そこで鎧一領を海中に投げて竜神に祈ったところ、風と浪が静かになって無事に渡ることができた。この故事より、この渡しを鎧の渡しと呼ぶようになった。さらにまた、奥州征伐から凱旋して来た義家は、茅場町側の一角に、戦勝のお礼にと塚を設けて兜を埋めた。近代になって、この地に兜町の名が付き、ここにできた株式取引所の俗称を、兜町とも呼ぶようになった。
江戸時代になると、日本橋川の両岸の地域は、埋め立てられて商業の中心地となり、小網町には地方の各地から舟で送られて来た荷物を陸揚げする、鎧河岸とか末広河岸とかいう河岸があり、その背後には荷物を保管する倉庫が連なって建てられていた。
この絵の手前の舟は、新吉原通いによく使われた足の速い猪牙舟、その左は小網町側から客を乗せて川を渡ってくる渡し舟、川下から川を上ってくるのは、茶船である。右側には、舟の往来を眺めているのか、あるいは渡し舟を待っているのか、近くの商家の娘らしき姿が描かれている。また麗らかな空を軽快に飛んでいるのは燕である。
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