江戸の住民は、男性が圧倒的に多く女性が少なかった。その自然の成り行きとして、男性相手の遊里が江戸の各地に発生した。しかしこうした遊里が、浪人や悪党の隠れる場所となり、治安上からも、風紀上からも問題が出てきた。そこで幕府は元和四年(1618)にまだ葭(よし)しか生えていなかった原っぱの葭町(後の人形町)へ各地の遊里を集めて公認の遊廓を建設した。これが葭原で後に吉原と字を改めた。
この遊廓が明暦の大火(1657)で焼失したのを機会に、幕府は再び風紀上の問題から、吉原を都心から遠隔地へ移転するように命じた。そのときに幕府が示した条件は、場所は浅草の北の田圃の中、廓の面積は1.5倍に拡張してもよい、そして昼夜営業をしてもよいというものであった。かくしてできた公認の遊廓が新吉原であった。新吉原は、遊女が逃亡できないようにと掘割が周囲を取り巻き、出入り口は東北の大門一つしかなかった。
廓の中は六区画に分かれていた。この絵の手前の道は、大門から南へ伸びる仲の町通りであり、この通りと交差している東西の通りは、江戸町二丁目と思われる。この通りの東の方の空が赤くなって夜が明けようとしている。廓で一夜を明かした男たちが、遊女に見送られて木戸を出て行く姿が描かれている。
仲の町通りには、満開の櫻の花が描かれている。この木は常時植えられていたものではなく、毎年桜の季節になると、ここへ移植されたものである。この仲の町の桜を、舞台装置にふんだんに用いて、劇場全体を新吉原の雰囲気で包んだのが、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」である。
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