この絵で隅田川を隔てた暗闇の中に、緑に覆われて浮き上がったように見える小高い岡が真乳山である。以前はもっと高い岡であったが、隅田川の氾濫から江戸市内を守るために、この岡を削り取った土で、堤防を築いたので低くなってしまった。この堤防は、真乳山の北麓から山谷堀に沿い、遊廓の新吉原の傍らを通って下谷箕輪に達していた。その長さは13丁(約1.4km)に及んだ。
真乳山の右に見えるのが山谷堀である。山谷川が本来の呼び名で、日本堤の北側に沿って東流し、隅田川に注いでいた。河口に架かっていたのが山谷橋である。この橋の両側には船宿や料亭が建ち並び、屋根舟や猪牙舟でやって来た、新吉原通いの遊客たちは、ここで腹ごしらえをして日本堤を陸路新吉原へ向かった。暗闇にもかかわらず、料亭の窓だけは蝋燭(ろうそく)の火で赤々としている。
広重は前景に、山谷の芸者に負けじと、向島の堤を歩く芸者を大写しに描いている。彼女は桜並木の下を提灯を持った下男に導かれて歩いている。一説に広重は馴染(なじみ)の芸者をここに描いたとも言われている。彼女は裾の長い着物を着て、左褄を右手で取り、また素足で下駄を履いていることから芸者であることが分かる。
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