江戸時代以前には、隅田川の東は低地と湿地帯とから成っていて、人が住んだり作物を育てるには不適当な土地であった。そこで、江戸幕府がこの土地を開発する為に、最初に手をつけなければならなかったことは、湿地帯を土で埋めたり、水路を造って低地から水を排したり、水路を造る時に出た泥で湿地帯を埋めたりすることであった。それ以来この土地には多くの水路が掘られ、これらの水路が縦横に交差することになった。
これらの水路のもう一つの機能は、物資を運ぶという運河としての機能であった。この絵の運河は、向島の北側にあった四つ木通という運河である。この運河はもともとは、本所・深川方面へ飲料水を供給するために掘られた上水であった。それが後には上水の末端の方で送水が不能となったり、場所によっては潮水がさし込むという不都合も生じたので、それ以後この上水は、両岸に広がる田圃の灌漑用水として利用される一方、引舟による運河としても利用されるようになった。
この運河の幅は広くなく、また水の流れも緩やかであったので、運河の堤防を歩く人間が船を綱で引いて動かした。そのためこの舟を引舟といった。この絵の手前の二艘の舟は上流へ引かれており、母親と子どもを乗せた上流の船は夫が引いて下流へ向かっている。これらの引舟は、農民たちが収穫物を江戸の市場へ運ぶためにも利用されていた。
また、この運河の堤防の上には、水戸街道の脇道が通っており、この街道を往来する人々の中で、金持は引舟を利用して行ったという。
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