吾嬬の森は、西の隅田川と東の中川とを結んだ最北の運河である、北十間川の東端の北岸にあった。ここに日本武尊の妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀った吾嬬権現社が鎮座し、その境内に一本の樟が立っていて、地上4尺(1.2m)あたりで二股に分かれていた。この木を連理の樟といってこの社の神木となっていた。
この神木の由来はつぎのようにいわれている。昔日本武尊が東国の蝦夷(えみし)を征伐するため、相模国から上総国へ渡ろうとして船に乗った。ところが海が荒れて船が沈みそうになったので、妃の弟橘媛が海神の怒りを鎮めて、夫の武尊を助けようとして海へ飛び込んだ。これにより武尊は無事に海を渡ることができた。その後、弟橘媛の着ていた形見の着物が、吾嬬の森の近くに漂着したので、武尊はこの着物を吾嬬の森に壇を築いて収め、瑞籬(まがき)を巡らして廟を造った。武尊はここで食事をし、使った樟の箸二本を廟の東に挿した。後になってこの箸に枝葉が出てきてくっつき、一根二幹の樟に成長した。この二股の木は、男女の契(ちぎ)りの深いことを示しており、これを連理の樟というようになったとしている。広重はこの絵の表現を「連理の梓」としているが、実際の木は樟であった。なお、『日本書紀』によると、日本武尊は、東征の帰途、碓日の峯から東南の方を眺めて、妃の弟橘媛の投身を悲しみ「吾嬬はや(わが妻は、ああ)」と嘆じた。それで、碓日の峯より東国の諸国を吾嬬という、とある。吾嬬権現社の名前は、この伝説に由来すると考えられる。
この絵は、北十間川の堤防や、権現社の境内にある桜の木々が満開になった有様を描いている。社の南の参道に何本もの白や赤の幟が立っている。これは、この社に願をかけて、それが叶えられた人々が奉納した幟だという。
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