江戸を出発した東海道の、最初の宿場が品川であった。この宿場の北部である、北品川の西にあった台地を御殿山といった。
三代将軍徳川家光は、この台地へよく鷹狩に来て、その折に休憩できるようにと御殿を建てたことから、この台地を御殿山と呼ぶようになった。後年、この御殿が焼失しても台地の名前は残った。八代将軍吉宗は、この御殿山を江戸の町民たちが物見遊山できるようにと、大和国吉野から、最良の桜の若木を取り寄せてここへ植えさせた。さらに毛氈を敷いて、座って桜見物ができるようにと、地面には芝を植えさせた。その上この台地は、江戸湾に臨んでいたので、東方には海の壮大な景色を見渡すことができるという利点もあった。
御殿山は、江戸の日本橋からほんの二里(8km)の距離にあったので、江戸の町人たちが日帰りの物見遊山をするのに便利であった。特に花見の季節には大勢の人々が訪れて来た。
幕末には、御殿山の東端はこの絵に見られるように、崖のようになっていた。これは、アメリカ海軍のペリー提督が艦隊を率いて日本へやって来た時、江戸防衛の必要上から、嘉永六年(1853)に、幕府の命令で山の東の端を削り、その土で品川沖に砲台(御台場)を築いたためである。(参照 名所江戸百景No.81、No.108)当初幕府は砲台を11造る予定であったが、実際に造られたのは5砲台であった。
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