目黒を流れていた目黒川に向かって突き出た、台地の一つに鎗が崎があった。鎗が崎は眼下に目黒川を見下ろし、その先には田園が広がり、遠方には富士山や、大山詣で有名な大山を眺めることができる非常に景色のよい台地であった。
江戸時代に探検家として有名であり、また書誌学者でもあった武士の近藤重蔵は、鎗が崎の景色が大変気に入り、これまで住んでいた日本橋の家を引き払い、この鎗が崎に新しい屋敷を建てて移り住んだ。彼は屋敷近くの用水を引いてきて滝を造り、庭木を植えて山水庭園を造った。さらに文政二年(1819)、彼は富士講の人々の手を借りて、ここより北西にあったと同様の富士山の模造を自分の屋敷内にも築いた。(参照 名所江戸百景No.25) この模造富士の高さは五丈(約15m)程であったという。この模造富士は後に造られたので、新富士と呼ばれた。江戸時代の僧侶十方庵敬順は、文化十年(1813)に著わした「遊暦雑記」の中で、江戸近郊で眺望が最もよい所は、目黒の新富士だとして、この山からの景観を絶賛している。
江戸時代、富士山は日本で最も高く、最も美しく、また最も神聖な山として多くの人々に崇拝されていた。富士山の信者たちは富士講という組織を作り、集団で富士登山をした。婦人や子どもたちで富士登山できない人々は江戸の各地に築造された、この絵のような模造富士へ登ることによって満足していた。この絵の模造富士の頂上では、三人の登山者が実物の富士山を眺めて感慨深げである。
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