目黒の行人坂の北に、千代が崎という台地が目黒川に向かって突き出た所があった。この崎は西南の方が開け、眼下に目黒川、続いて田園、さらに遠方には、富士山も望める眺望のよい所であった。またこの辺りには清水が多く湧き出ていた。
このように景色のよかった千代が崎に、九州藩主松平主殿(とのも)侯の下屋敷があった。庭の中には形のよい松や桜の木が植えられ、台地から湧き出た水が、何段にも折れる滝となって池へ流れ落ちていた。池の名前は千代が池といった。
南北朝時代に、南朝方についていた新田義興(よしおき)が、北朝方の足利尊氏の策にかかり、越後から武蔵へ逃れて来て、六郷川(玉川)の矢口の渡しまで来た時、伏兵に遭ってあえない最期を遂げた(1358)。この時愛人であった千代は、悲しみの余りこの池へ身を投げて死んでしまった。この故事から千代が池という名前が付けられたという。
この絵では千代が池に因んでか、池畔を散策する人物には女性のみが描かれており、また広重にとって稀な技法であるが、池の水面に反映した木々が描いてある。
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