内藤新宿の南側の、裏を流れていた玉川上水は、四谷大木戸で江戸城内や番町方面への上水を取り入れた後、余った水が南流し、渋谷を経て麻布の南を、南東方面へ向かって流れていた。この川は渋谷を通過する間は渋谷川と呼ばれ、それより下流では順番に古川、赤羽根川、新堀川、金杉川と名を変えて金杉橋の先で江戸湾へ注いでいた。
この絵は古川に架かった四の橋と、古川の上流にあった広野原を描いている。この辺りの古川は、蘆荻(ろてき)が叢生(そうせい)し野趣掬(きく)すべき清流であったという。昔ここ広尾原には将軍の鷹狩場があった。八代将軍徳川吉宗も、時々鷹狩に広野原を訪れたという。
将軍吉宗は、この地を町人たちが楽しめる所にしようと、桜や楓を植えさせたが成育しなかった。しかし鷹狩が行なわれなくなってからは、町人たちの野遊の地となった。広野原は土筆(つくし)が採れたところから土筆が原とも呼ばれていた。春には若草が生い立ち花も咲き、夏から秋に掛けては萩を始めとして色々な草花が咲いたので、花野の名所として広く知られていた。秋には虫が鳴き、虫開きを楽しめる場所でもあった。
四の橋の左側に見える料理屋は鰻屋であり、また手前の道は聖徳太子の彫ったという毘沙門天(びしゃもんてん)を祀った天現寺へ通じていた。
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