日暮里は古くは新堀(にいぼり)と言い、ここから西北にある、王子を流れる石神井川に沿って掘られた、新しい堀のことを指すという。そしてこの名前は永禄二年(1559)に出された古い記録に既に載っているという。
日暮里は南の上野の山、北の飛鳥山と同じ台地上にあり、この台地から見た東方の眺望は素晴らしいものがあった。江戸時代に入るとこの地一帯は上野の東叡山寛永寺の領地であったこともあり、多くの寺院が建てられた。これらの寺院は、地形をうまく利用して、競って自院の境内に、奇石を積み重ねて築山を設け、林泉を構え、花木を植えた。そのため、どの寺院もいつも草木の花が絶えなかった。春の季節が訪れると、各寺院の境内には酒亭や茶店が並び、床机が所狭しと置かれていた。そして江戸から多くの人が袖を連ねてやって来て、春の日が暮れるのを惜しんで酒宴を張った。これより日暮しの里の名前が生まれ新堀が日暮里と呼ばれるようになったという。江戸文化の発展を反映して、風流人や文人墨客もやって来て、ここで長唄、浄瑠璃、和歌、俳諧などの会を盛んに催したという。
日暮里の中で有名になった寺は、花見寺といわれた青雲寺、きりしまつつじの修性院と妙隆寺、雪見寺と言われた浄光寺などである。広重の絵は青雲寺の境内を描いたものであると思われる。
>> 専用額について詳しくはこちら