この絵の遠景に見える上野の山には、将軍家の菩提寺寛永寺があり、先祖の供養日などには将軍が出掛けて参詣した。その折将軍は江戸城から広小路を経て上野の山へ入ったので、広小路は御成道(おなりみち)とも言われた。広小路は、上野の山の下にあったことから、下谷広小路と称された。
広小路は明暦大火(1657)があって後、寛永寺を火災から守るために、道幅を拡張して造られた火除地であった。広小路は寛永寺の門前町としても栄え、道の両側には数多くの店が立ち並んでいた。この絵の右手前に、丸に井桁の中に藤と書いた暖簾(のれん)を掛けた大きな店がある。井と藤は「いとう」と読め、これは尾張名古屋に本店を持つ伊藤家の経営する松坂屋の江戸店(えどだな)であった。この店は看板にも示されているように、呉服物を売っていた。松坂屋の隣に白壁の土蔵が建っている。表通りに面した表店(おもてだな)のある商家は、その脇に店蔵(たなぐら)と称する土蔵を持つことが多かった。その先に道路へ突き出て、赤丸の図案の付いた障子を建てた家がある。これは髪結床で江戸の町の各所に見られた。
松坂屋の前を、揃いの色鮮やかな傘を差した女性の一団が上野の山へ向かって歩いている。琴、三味線、浄瑠璃などの稽古に通っている弟子たちが、師匠に連れられて上野の山で桜見物を楽しみに行くのであろう。
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