湯島天神は湯島台地の上に建っていた。往古この近くで温泉が出た事から、湯島と名付けられたという。湯島天神は南北朝時代(1336~1392)に、この辺りの村民が、京都北野天満宮の分霊を勧請して、祠に祀ったのが始まりという。北野天満宮の祭神は天満天神とも言い、菅原道真を指した。
江戸における湯島天神は、和歌や連歌の神、芸能の神、書道の神、さらには縁結びの神として崇められ、本郷や下谷にかけての町人層の間で、天神さまとして特に親しまれていた。寺子屋の師匠たちも弟子たちを連れて来て、学問の上達を祈願して行った。またここは「江戸の三富」といわれ、社の修理費をまかなうための富くじ興行が許されて、毎月十六日に富くじが売り出される場所であった。この日は特別に多くの人々で境内は混雑していた。ところが富くじ興業は天保十三年(1842)に禁止となった。境内には茶店、休処、売薬店、香具店、楊弓場、宮芝居小屋などが立ち並び、さらに境内の外には、料理茶屋があって江戸庶民の娯楽地ともなっていた。
湯島天神のある高台は、雪景色、月見、花見によく、四季を通じて眺望が勝れていた。ここへ登るには女や子どもは、勾配の緩やかな女坂を、男は真直ぐで急な勾配の男坂を登った。
女坂を登りつめた坂上から北方の景色はすばらしく、眼下に池の端仲町の町屋、不忍池、池に突き出た中島、上野の山の清水堂、東叡山寛永寺の大伽藍、さらには谷中の辺りまでを望む事が出来た。
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