高田の馬場から少し北へ行くと、神田上水に架かった土橋に行き当たり、その橋を渡って田圃(たんぼ)道をさらに進むと、小川に架かったもう一つの橋があった。幕府編纂の地誌によると、前者が面影橋(おもかげばし)、後者が姿見橋となっている。両者の名前があまりにも似通っているため、後に両者が混同され、広重も前者を姿見橋、後者を面影橋としている。
ここでは幕府の地誌にしたがって説明を試みてみる。手前の神田上水に架かっている橋が面影橋であり、その先の小川に架かった橋が姿見橋となる。姿見橋の由来は次のように伝えられている。
昔この橋の両側に池があって、その水がよどんでいて流れず、人がこの橋の上にたたずんで覗いてみると、鏡に自分の姿が写っているように見えた事から、この橋の名前が付けられたともいう。
姿見の橋を渡って行くと左に氷川(ひかわ)神社があり、その向かいにその別当寺である南蔵院があった。氷川神社の森のある辺りや、田圃道の左右は、中春の頃(2月)になると、蓮華草(れんげそう)が一面に咲き、毛氈(もうせん)を敷いたように見えたという。姿見の橋の北側一帯は、昔砂利が取れたので砂利場村と称した。この辺りは蛍の名所でもあって、季節の夕方になると、老若男女が籠を下げて集まり、団扇(うちわ)で蛍を追い回していたという。
それはさておき、高田の馬場と面影の橋との間に民家があり、その辺りを「山吹(やまぶき)の里」といっていた。あるとき、武将の太田道灌(おおたどうかん)が急に雨に遭い、雨具を借りようと農家を訪ねると、少女が出て来て何も言わずに、山吹の枝を差し出した。「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき」(後拾遺和歌集)という和歌を引合いに出して、断られたのが分からなかった道灌は深く恥じ、以後和歌に精進したという伝説の里である。
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