びくに橋は、江戸城東側の外濠より流れ出る、京橋川最初に架かっていた橋である。びくにとは、もともと出家して一定の戒(かい)を受けた尼僧(にそう)を指したが、江戸時代には、尼の姿をした私娼(ししょう)のこともいい、この橋の近くに、びくに宿があったため橋の名前にびくにが付いたという。
この絵の手前左側の看板にある「山くじら」とは、一般に猪(いのしし)の肉を指した。この店は「尾張屋」といい、猪の肉と葱(ねぎ)とを鍋の中で煮て客に出していたという。山鯨について『江戸繁昌記』(1832-1836)は「近年肉の値段が上がってきて、ほぼ鰻と同じ位になった。味は美しく柔かい。体を暖めるなどの効き目が速い」といった趣旨のことを書いている。
道を隔てて向かいの店には「○やき十三里」の看板が立っている。これは薩摩芋(さつまいも)を丸焼きにして売る店で、その味が栗(九里)より(四里)うまいというわけで、九里と四里とを足して十三里と洒落て看板にしたものである。さらに栗(九里)に近いという意味で「八里半」とした看板もあった。江戸の婦人たちは、薩摩芋を御薩(おさつ)といって賞味していた。
天秤(てんびん)で箱を担ぎ、橋を渡らんとしているのは「おでん屋」であろうか。田楽(でんがく)と煮込みおでんとともに、燗酒(かんざけ)も売って歩いた。
絵の右側に、江戸城の外濠を隔てて、黒松の木が植えられた石垣が描かれている。この石垣の内側には大名小路(だいみょうこうじ)という大名屋敷町があった。
この絵は、二世広重が描いたとも言われている。
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