赤坂(あかさか)御門から、山王(さんのう)台地の西南の麓に沿って、虎の門に達する細長いひょうたん形の溜池(ためいけ)があり、虎の門近くに設けられた堰(せき)から、その余水が外濠へ「どんどん」という音をたてて流れ落ちていた。
この堰から外濠に沿って、虎の門外へ下っている坂を「あふひ坂」といった。坂の上の辻番所で葵(あおい)を栽培していたので付けられた名前だという。この絵で、坂上に大きな屋根だけ見えているのが辻番所である。
この辺りはもともと、有力な外様大名(とざまだいみょう)が幕府から土地を与えられて屋敷を建てた所である。堰の右側の灯の点った屋敷は、内藤右近将監(ないとううこんのしょうげん)の上屋敷であり、また濠を隔てたあふひ坂の南に沿ってあった屋敷は、松平肥前守(まつだいらひぜんのかみ)の中屋敷であった。この絵には見えていないが、手前の道を右へ行った所に京極佐渡守(きょうごくさどのかみ)の上屋敷があり、その邸内に金毘羅(こんぴら)が祀ってあった。
手前の裸に素足の二人が持っている長提灯(ながちょうちん)に書かれた文字は「金毘羅大権現」と「日参(ひまいり)」であるので、二人は金毘羅から出て来たばかりの男であろう。この二人は職人の弟子で、年季奉公中に技倆が上達するようにと、金毘羅に願をかけ、夕暮れより身を清めて寒中の三十日間鈴を鳴らしながら寒行(かんぎょう)をしていた連中である。路上の手前の屋台は「太平しっぽく」とあり、うどん売りである。また坂を上っていく屋台は「二八(にはち)そば」屋で、十六文のそばを売っていた。
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